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今様(いまよう)について

 平安時代後期に流行した歌謡。和讃(わさん)(民衆的な仏教歌謡)、神歌(神楽歌の通俗化したもの)などを含みながら、催馬楽(さいばら)(民謡などを歌曲化したもの)、朗詠(中国、日本の漢詩、漢文を日本読みにして歌うもの)の系統をひく歌曲など、幅広い性格をもった。今様の語義は、「当世風」の意で、前代からの神楽歌や催馬楽、風俗(ふぞく)などに対して「今めかしさ」をそなえた新興歌謡であった。早く、『紫式部日記』『枕草子』などに「今様歌」の名がみえ、白河・堀川・鳥羽・崇徳の各朝に盛行、宮廷御遊の折に、朗詠とともに主要な声楽として、これを歌い興じたことが『中右記』『台記』その他に見える。白拍子
 院政期にもっとも盛んとなり、ことのほか今様を愛した後白河院は、『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)を編纂(嘉応元年(一一六九)頃成立)、承安四年(一一七四)には十五夜連続「今様合」(いまようあわせ)を開催。院は遊女・乙前(おとまえ)を師としたが、今様が遊女や傀儡子(くぐつ)らの専門技芸として普及、宮廷の今様と庶民の今様とを媒介したことは、注目される。古代から中世へ移る過渡期にあって、民衆と貴族・武士が接近、これが、新しい芸能のエネルギー源でもあったと考えられる。
 鎌倉時代にはいり、今様はその今様たるゆえん=つねに「新しさ」を求めつづける力を失い、宮廷今様は歌詞も固定化、「今様伝授」として「継承」するものとなり、室町時代以降、各地の祭礼などにわずかな伝承を残すのみとなる。
 今様の特徴としては、和歌の常套的な抒情表現から脱した、自由で素朴な歌いぶりがその生命であるとされている。伴奏楽器は鼓を主とし、笛や笙なども用いられた。なお、広義の今様には、足柄(あしがら)・片下(かたおろし)・黒烏帽子・伊地古・権現・田歌など諸種の曲目があった。これらを含めた汎称としての今様は、雑芸(ぞうげい)ともいわれる。

<今様の歌詞文献>
 『梁塵秘抄』に収められた約五百六十首(巻一断簡・巻二)が最大の集成であり、続いて、『古今目緑抄』(十三世紀初成立)の六十数首、寂然『唯心房集』所収の五十首が知られている。その他、『平家物語』『十訓抄』などの軍記・説話集にも散見される。これら作者は公卿や僧侶が多いが、ほとんどが未詳である。
 その後、江戸時代末期から明治初期にかけて、国文学者や文人が多く、七五調四句の今様を創作した。なお、明治の小学校唱歌への導入があり、一般に七五調四句が今様調と考えられていたが、古い資料には七五調定型のほか、不整形式も多いことに注意したい。


※梁塵秘抄(りょうじんひしょう)
後白河院撰の歌謡集成。嘉応元年(一一六九)三月頃成立。今様歌謡の集成である、『梁塵秘抄』と、今様歌謡の口伝を記した『梁塵秘抄口伝集』から成る。現存するのは歌謡集巻一(抄出)第二と口伝集巻一(巻首抄写)巻十の四本のみ。法文歌と四句神歌には、仏・法・僧という仏教の根本分類が適用されており前者には法華経歌を中心に仏典翻訳の歌が集められ、後者については、神祇関係の歌・庶民の日常生活、心情を率直に歌った歌が集められる。

※後白河院(ごしらかわいん)
大治二年(一一二七)、鳥羽上皇の第四皇子として誕生。母は待賢門院璋子。親王時代は芸能にも秀で、今様狂いとして名が残る。保元の乱により、政治の中心に身をおくことになる。武家台頭の動乱期に、後白河院として権勢をふるった。仏道に精進し熊野御幸は歴代三十三度にもおよぶ。『梁塵秘抄』を編纂するなど、その功績は多大である。


※承安今様合(しょうあんいまようあわせ)
承安四年(一一七四)九月一日より十五夜にわたり、後白河法皇の御所法住寺殿において催された「今様合せ(いまようあわせ)」。藤原実定・成親・実国ら、選ばれた堪能の公卿三十人が、毎夜一番ずつを合わせ、雌雄を決せられた。今様流行の頂点を示す出来事として、数々の記録にも残されている。今様合(いまようあわせ)とは、平安時代に流行した物合せ(ものあわせ)の一つで、歌合せに類する。承安今様合は今様合の中でも特に名高い。